月の姫は遠慮もなくサマリに近づいて、目の前に立った。その様子は自信に満ち溢れ、サマリを気後れさせた。お供もなく単独で来たらしい彼女の着ている服は豪奢でシャラシャラと音を立てた。
(いい匂い。花の香りかしら・・・)
サマリの鼻をくすぐる甘い優しい香りは、精油から作られる超贅沢品だと思われた。
サマリは日々の生活でいっぱいいっぱいだし、元々岩壁をよじ登り剣の稽古をするような生活をしているのでオシャレをした事もない。そして(興味が無かったわけではないのよ)と誰も何も言っていないのに言い訳じみた事を思った。サマリは月の姫の姿を見て、自分とのあまりの違いに目を奪われた。
先程会ってきたイフリーテも素敵だったが、そこはもう住む世界が違う。こちらは人為的、金銭的な違いをまざまざと見せつけられる。そんなサマリの思いなど全く知らない月の姫は、サマリに親切そうな笑顔を向けた。
「門番が追い払ったと知って、探させていたのよ。私、貴女が来るだろうと待っていたの」
月の姫のような高貴な人が自分に何の用事があるというのか。イフリーテとの話が終わったサマリはこの神殿から早く立ち去りたかった。何しろ、不法侵入である自覚がある。
「あの、でも私、もう用は済んだから・・。な、何も取ったり悪い事はしてないから、お願い、見逃して・・」
サマリは作り笑いをしながら一歩後ずさる。
すると、月の姫は驚いたようにサマリに訊ねた。
「用は済んだですって?私と神殿に行きましょう、貴女『ルフの娘』でしょう?私にはわかる。その貴女の纏った気配、風の精霊様のものよ」
突然現れた月の姫がサマリに何をさせたがっているのか、本人にはさっぱりわからない。サマリはもう一歩後退り、ソルを横目に見た。
『ピピッ!サマリちゃん、もう行きましょう?サマリちゃんがやりたくない事は、ピピピ、やらなくて良いの』
ソルの話す言葉は、流石に月の姫にはわからなかった様子だ。月の姫はソルの姿を認めたが、その囀りには反応が無かった。
「わ、私、神殿には行かないわ!」
サマリは一声そう叫ぶと、身を翻して神殿の外へ出る崩れた壁を目指して走った。
「待って!お願い、待って!ねえ、これって貴女の事でしょう?
『宝求めんと欲する者よ
ルフの娘の祈りを捧げよ』
『その宝、命の源、力の源
西から昇る・・・』」
どうしてだかわからないけれど、サマリは月の姫から無性に逃げたかった。
走るサマリの背後に、追い縋る月の姫の声がこだました。聞いたことがあるような、けれどもちょっと違うような、譜を詠む月の姫の声が背中にかかり、けれどすぐにそれは距離を経て聞こえなくなった。
今のサマリには、譜の事など、どうでもよかった。サマリはすぐに壊れた壁に辿り着き、そこを軽々とくぐり抜けた。ついでに崩れた岩壁を数個埋め込んで、出入りしにくいようにした後、路地裏へと紛れ込む。
あの祭りの日、サーリーがバルコニーを眺めながら発した声が脳裏に浮かぶ。
「綺麗だよな。一度でいいから姫を間近に見てみたいな」
どうして今、それを思い出したのか、サマリにはわからない。何故だか込み上げるものを感じて、サマリは勝手のわからない路地を無我夢中で走った。神殿から離れさえすればどこでも良かった。
続く